「大きな夢を抱いていた主人があんなに早く無念の死を遂げたわけですが、きっとあの人が見守ってくれてるんだって、そんな風に思っています。」
そう語るのは横尾材木店の会長である横尾セツ。
1926年(大正15年)、横尾材木店は材木商として埼玉県本庄市に創業した。
二代目社長の横尾良孝(よこお よしたか)が39歳の若さで逝去後、良孝の妻である横尾セツが社長代理に就任。
セツは、これまでの材木商から事業の多角化を図り、注文住宅請負、建売住宅、不動産業などの事業に参入した。2001年には良孝とセツの息子にあたる横尾守(よこお まもる)が三代目社長に就任し、現在まで続いている。
この記事では、会長・セツの半生を通して、夫の亡き後に事業を継いだ挑戦、お客様やステークホルダーとの絆、そして未来を担う次世代へのバトンパスなど、創業100年を迎える横尾材木店を作り上げた「人」と「想い」に迫ります。
横尾材木店の仕事場で遊ぶ子供たち
織物で栄えた足利(イメージ)
インタビュアー:会長は栃木県足利市で織物業を営む家庭に生まれたそうですね。
やはり幼少期から「商い」というのは身近なものだったのでしょうか?
会長・横尾セツ(以下:会長):そうですね。足利は織物の栄えた町で、私の実家も営んでいたんです。
だから工場で働く人だとか、出入り業者の方とかですごく家が賑わっていて、サラリーマンの家庭とは全然違ったかもしれません。
そこで立ち働く両親の忙しい姿をいつも見ていました。
あとは商売というところでは、高校卒業してすぐに東京に働きに行ったんです。
都内のブティックの本社で、事務を2年間。
社長の自宅へ住み込みで働きながら、そこでも商売の仕組みや成り立ちを学んで、いい勉強になりました。
インタビュアー:その後で、横尾材木店との縁があったんですね。
会長:そうですね。足利で忙しい家に生まれて、それで自分もまた2年間、東京の洋品店で忙しく働いて。
そんな生活だったので、この材木屋のお見合いの話を受けたときには「あーじゃあずいぶん、これまでと違って、女性だから楽に出来るなあ(※)」と思ってたのが、逆になっちゃって。
※当時の材木商は男性社会だった。そのためお見合い当時は「(女性である自分が)材木店を切り盛りすることになる」とは思ってもみなかったという。
会長:だけどそれが契機として、自分がこういう風に燃えることが出来たのかなって思います。
インタビュアー:「契機」というのは、やはり夫である2代目社長が39歳という若さで亡くなった後、事業を引き継ぐことを決めた時でしょうか?
会長:はい。結婚生活は11年間だったんですよ。
商売熱心な夫は「商圏を広げて大々的にやりたい」という大きな夢をいつも語っていました。
インタビュアー:闘病生活は約8年間と長く続いたんですよね。
会長:病気は長かったです。
結婚して3年くらいで倒れてしまって、それからは病院通いしながら商売をしていましたが、いよいよ悪くなったのはその5年後でした。
再発してからは寝たきりのような状態になりましたけれど、それまでは本当に熱心に働いていました。
(夫の病気は)脳腫瘍だったんですけれど、最後の1年くらいはほんとにもう意識が朦朧としていて、だからあの……「後の事は頼む」とか、「子供を頼む」とか、そういうことは一切何にも話さないで亡くなっちゃったわけなんです。
それが私は物足らないんですよ。できればね、「子供のことを頼むよ」とか、「商売を続けてくれ」だとか言ってくれた方が……。一緒になって泣きたかった。
会長:あの歳で、こんな小さい子供を残して逝ってしまうというのはものすごい無念じゃなかったかと。
私はもうそれはもうほんとに、意思表示は無かったけれどもすごく切実に感じたんですよ。
だから絶対に守(※)に後を継がせなければと思って。
※「守」……横尾材木店三代目社長・横尾守(現在)。二代目社長・良孝が亡くなったとき、守はまだ小学4年生だった。
父・良孝と幼少期の守
インタビュアー:守社長自身も、幼いながらに「父の会社を継ぎたい」という意思があったんですよね。
会長:守も小さい時からいつも事務所のストーブのところで、大工さんなんかと話したり笑ったり、色々とお付き合いがあったから。
それで「俺は(社長に)なるんだ」という気持ちがあったんだと思いますね。
インタビュアー:会社を引き継ぐと決めたとき、ご家族からは心配されませんでしたか?
会長:凄くされましたね。両親からは子供を連れて足利に帰ってくるように言われたんですよ。
でも私は、さらさらそんな気はなかったですね。
なんといっても子供が一番大事でしたから。
母性愛っていうんでしょうか、母親はみんなそうだと思いますが、「子供のためだったらなんでもできる」と思います。
インタビュアー:それだけの覚悟があったんですね。
会長:…あとは、なんていうのかしら、時代だと思います。
今の時代だったらやっていけてなかったかなと思います。
あの時はほら、終戦の後で、どんどん復興していったでしょ。だからいい時代に乗れたんですよ。
みんなそうだと思いますよ。
3.材木商から建築業へーー「社長代理」と「母親」を両立しながら
母・セツと幼少期の守
インタビュアー:材木商は男性社会だったとのことですが、その中で働く上で女性ならではの苦労はありましたか?
会長:材木の仕入れというのは市場へ買いに行くんですが、そこへ行くと女性が不利だと感じることはありました。
住宅の土台に使うヒバの木は、一番丈夫で、虫も食わない木なんです。
それが貴重でなかなか買えない。そのヒバを「次に入荷したらぜひうちに連絡してくれ」と確約していたのに、いざ入荷したら男性の同業者に横から持っていかれて。
あの時は「女性だから」と馬鹿にされている感じがあって、悔しくて忘れられないです。
今の社会は女性がすごく活躍するようになってきて、女性社長なんてたくさんいますよね。
現代の女性社長って凄いから、私にはとても真似できないなと思います。
インタビュアー:「女性の活躍」という点では当時の方が厳しい環境というイメージでしたが、意外ですね。
会長:あの頃はそういう(有能でないと活躍できないような)時代ではなかったんですよ。
もっと泥臭いというか、夢中でやれば入り込める余地があるというか、そういう時代でした。
インタビュアー:当時と現代で、それぞれの難しさがあるんですね。
材木商から建築業へ
インタビュアー:材木商から建築業へと事業を転換したのは、どのような経緯があったのでしょうか?
会長:会社を引き継いだ時は、日本は右肩上がりでどんどん成長してきて、住宅もどんどん建てられていた時代でしたから、材木も売れて。
夫が亡くなった後も続けられたのは時代のせいだなと思うんですよね。
でも1970年代にオイルショック(※)があって、景気も低迷してきたから材木も売れ行きが悪くなってきて、「ああ、これは先細りになるなあ」と思ったんですよ。
※オイルショック……1973年と1979年に発生した2回の石油危機。世界的に石油価格が急騰し、それに伴うエネルギー不足や経済的混乱を引き起こした。
インタビュアー:時代の影響を受けての判断だったんですね。特にそのきっかけとなるような出来事は何かあったのでしょうか?
会長:その頃、商工会議所主催のトップセミナーが毎年あったんです。
伊香保温泉で一泊二日で、4、5人の講師が世界の経済情勢、日本のこれからの展望を教えてくださって。
とてもよい勉強会で、参考になりました。
そこで話を聞く中で、「このままのやり方では材木屋は先細りになってしまう」という不安感が高まっていきました。
主人は「これから(会社を)うんと大きくしたい」って思っていた人だったから、その思いを絶対次に繋げなくてはという一心で。
じゃあ、(会社を続けるために、自分に出来ることは)なんだろうと思ったら、一般ユーザーと関わることだと。
私はわりと人とコミュニケーションとるのが好きなので、それで自分の力をもっと発揮したいというか。
なんとか自分を燃えさせたいっていう思いもあって。不完全燃焼は嫌だから。
インタビュアー:二代目社長の意思を継いだだけでなく、会長自身も商売への情熱を燃やしていたんですね。
会長:そうですね。それで、それにはやはり宅建(※)を取らないと建売は出来ないし、請負(※)をやるには知識も足りなかったし、勉強しなければと思ったんです。
※宅建……「宅地建物取引士」の資格の略称。不動産取引の専門知識を問う国家資格。
※請負……建物の建築工事を顧客から請け負うこと。建築の設計から施工までを引き受ける事業形態を指す。
インタビュアー:会社経営と子育てをしながら国家資格を取るというのは相当大変でしたよね……。
会長:ねえ!今考えるとよくできたなあと思うの。その時は無我夢中でした。
会長:昔はね、週に1回木曜日だけ、浦和の埼玉会館へ講師が来て不動産免許の講習会をしていたんですよ。
夜の6時から8時くらいまで。そこへ通って講義を受けながら、全部録音テープに吹き込んで。
家に帰ってからはそれをエプロンのポケットに入れてね、色々家事をしながら録音を聞いて、勉強して。
インタビュアー:本庄から浦和に通うとなると、電車の本数も多くないですよね。
会長:そうなんですよ、夕方の4時までには電車に乗るから、うちは木曜日は毎週カレーなんですよ(笑)
家にはおばあちゃんもいたので、カレーだけ作っていけば子供とおばあちゃんだけでご飯が食べられるから。
おばあちゃんは「またカレーかい?」なんて孫に言ってましたけど(笑)
宅建受験時について語る会長
会長:あとは夜眠くなったら煙草吸うんですよ。
そうすると眠気が覚めるの。不思議ですね、あれね。
それで夜遅くまで勉強が出来る(笑)
インタビュアー:会長が煙草を吸っていらっしゃったとは意外です。
その時はそれほど大変だったんですね。
会長:そうですよね。
でも煙草は嫌ですね、その時だけ。勉強するときだけでした。
それで何とか合格できたので……あの時はもう本当に、今じゃ考えられないですね。
でもあの時が一番充実してた、今よりも(笑)
上棟式後の直会(なおらい)の様子
インタビュアー:新規事業を始めたときは、不動産・建築のノウハウがない中でどのように進めていったのでしょうか?
会長:材木商時代の取引先にはベテランの大工さんがいっぱいいますから。
そういう「なんでも分かる人」と色々話しながらやっていきました。
私も木造建築士の資格を取って自分で現場を見に行ったり、社員を増やしたりもしましたけど、建築の専門的なところはやっぱり大工さんが頼りになるから……本当に色々と協力してもらいましたね。
あとは税理士の先生や銀行の方も色々なことを教えてくださいました。
インタビュアー:大工さんをはじめ、多くの取引先の方のご協力で成り立っていたんですね。
会長:そうですね。
そんなわけでうちは「横尾旅行会」というのもしていて、毎月3,000円の会費で年に1回旅行していたんですよ。
そんなに遠くじゃないけれど、バスを1台借りて一泊でね。
大工さんの奥さん達も一緒に行ったり、そういうのでコミュニケーションが取れていたから仕事でもすごく協力してくださって、色々相談にも乗ってくださいました。
インタビュアー:ビジネス上の付き合いだけではない、家族のような絆を感じますね。
会長:そうですよねえ。
これはお客さんとの話ですけど、お客さんの家へ行くと「夕飯食べてかない?」なんて言われて御馳走になったりとか、お客さんがうちへ来てくれてお茶飲んで帰るだとか、そういうお付き合いもさせていただきましたね。
やっぱりそういう時代だからこそ出来たんですね、心を許してくれるっていうかね。
インタビュアー:時代もそうですが、会長の「コミュニケーション好き」なお人柄というのもありそうですね。
社員とのかかわり
インタビュアー:地域密着型の横尾材木店にとって、人とのつながりは大きな強みだと思います。
その点はずっと変わらず受け継がれてきたんでしょうか?
会長:社風というか、お客さんとの関わり方というのは、社是にもある「『誠意』と『感謝』と『奉仕』(※)」ね。
お客さんとだけではなくて全ての人との人間関係において、その精神がすごく大事だということはいつの時代でも通じていますよね。
※横尾材木店の社是には「お客様に常に『誠意』と『感謝』と『奉仕』の精神で…」という一節がある。
会長:あとはまあ、ずっと変わってないところっていうのは、社員同士がとてもアットホームで仲良し……だと思うんですけど(笑)
いいことだなと思う反面、厳しい会社から見たら「甘い」だとか思われるかもしれないですけど。
インタビュアー:社員としても、それはいつも感じます(笑)
この「仲良し」な雰囲気というのは、自然と続いてきたものなのでしょうか?
会長:そうですね、自然とそういう風にやってきたっていうことですね。
それがやっぱり良かった点もあるし、悪かった点もあると思います。
インタビュアー:横尾材木店で働く身としても色々な方の「人の好さ」がにじみ出ている会社だと感じます。
会長:そうですか、もう長く勤めていただいてる方も多くて、ほんとに助かっています。
ほんとにもう社員の皆さんのおかげ。
ここまで来られたのは社長の手腕もありますけど、なにより「社員が付いてきてくれた」っていうことですよね。
やっぱり社員というのはすごく大事だと思います。
二代目就任直前の横尾材木店(右から1番目が会長、右から2番目が社長)
インタビュアー:横尾材木店は一族経営で続いてきましたが、「一族経営で良かった」と思うことはありますか?
会長:そうですね、近年では後継者問題がクローズアップされていて、「後継者が居なくて結局は会社ごと売ってしまう」という経緯でのM&Aも盛んです。
その点では一族で経営していて良かったのかなとは思いますよね。
やっぱり子供の頃から家業に興味を持ってくれているというのは大事かなあと思います。
インタビュアー:一族経営が続くと成り行きで事業を継ぐこともあるため、「3代目から経営悪化しやすい」という風潮がありますが、当社で3代目時代も成長が続いたのは、社長が子供の頃から「自分が会社を継ぐ」という強い意思を持っていたからこそでしょうか?
会長:それだから続いたのかなって思いますよね。
私は開けっ広げな性格なので、社長が中学生の頃から住宅の現場へ一緒に連れていって、大工さんや職人さんの働く姿を見せて、「この土地はいくらで買って、いくらで建物を建てて、いくらで売るから、このくらい儲かるよ」とか、試算表を見せながら話していたんですよ。
そうすると結構興味深く聞いていたから、中学生の時からもう「俺はこれを継ぐんだ」っていう気持ちがあったのかなと思っています。
インタビュアー:会長から社長へ、子供の頃から仕事の話をオープンにしていたからこそ横尾材木店はここまで成長してきたんですね。
店舗でのイベントを楽しむ幼少期の専務
インタビュアー:3代目社長から、今後は4代目社長(現専務)へと会社が受け継がれていくかと思います。
会長から見て、専務はどんな経営者になりそうだと感じますか?
会長:私からみて専務はとてもしっかりしてるなと思うんですよ。
ちょっとおっちょこちょいで、突っ走るところもあるけれど、これからもっと、会社の中身から充実させるんじゃないかなと思うんですよ。
そういうことにあの子は特化していくかなと。それはすごく大事なことだと思います。
インタビュアー:今の横尾材木店とはまた違った雰囲気になりそうですね。
専務は「社長とは異なるタイプ」という印象でしょうか?
会長:うーん、そうですね。
親子だから考え方も似ているとは思いますが、……社長の方は子供の時から大きな夢を見る子だったんですよ。
小学生の頃は結構やんちゃで、色々と私も呼び出されて謝りに行ったりするような。
そういう点で比べると専務の方はきちんとしていて、真面目です。
インタビュアー:そうした性格の違いが仕事にも表れて、社長は「規模の拡大」、専務は「中身の充実」と関心事が異なっているんですね。
インタビュアー:専務のこれからの活躍について、期待していることはありますか?
会長:専務が横尾材木店へ入って3年が経過しましたが、仕事をする中で見えてきた当社の課題や、自身の体験からくる気づきを今後も補正していってくれると思っています。
これから長い人生、紆余曲折があると思いますが、社員の皆さんと共にしっかりコミュニケーションをとりながら、夢の実現に向けて会社の中身を充実させてくれる。
それが専務に与えられた役目のような気がいたします。
実際に、専務・横尾学は社員から「今後どういう会社にしたいのか」と尋ねられた時にこう語っていた。
「会社をもっと大きくしたいという目標は無くて、今働いている人たちが生き生きと楽しく幸せに働ける環境にしたい。
そのために事業を継承するし、(利益創出と楽しさの)一番いいバランスを突き詰めていきたい」
この台詞には、二代目・良孝とも三代目・守とも異なる、横尾学のカラーが強く表れている。
インタビュアー:「3代目が会社を潰す」なんて話をよく聞きますが、当社においては3代目も4代目も、寧ろどんどんよくなっていくのではないかという希望を抱きました。
会長:そうですね、私はね、大きな夢を抱いていた主人があんなに早く無念の死を遂げたわけですが、きっとあの人が見守ってくれてるんだって思うんですよ。
社長にも吹き込んでくれている、だからこれだけ出来ているんじゃないかなって(笑)
なんか変な話ですが、そんな風に思っています。
これまでのことを振り返る会長
インタビュアー:こうして振り返ると、横尾材木店100年の歴史の中で会長がキーパーソンとなっていますね。
会長が「繋げなければ」と一生懸命伝えてきたことが、今こうして会社が続く礎になっていると感じました。
本日はお話を聞かせていただきありがとうございました。
会長:はい、ありがとうございました。
最後まで記事をお読みいただき
ありがとうございました。
これからの100年も横尾材木店を
よろしくお願いいたします。
横尾材木店の家づくりについてはこちら
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